月別アーカイブ: 2017年6月

陣地をとられた!

台湾最南端の墾丁(カンティン)という海辺の美しい街に夫と娘と週末に遊びにいったときのこと。

若者に人気のほうのビーチはドリンクバーのスタンドが並び、楽しそうだったけれど、久しぶりにとにかく静かに海の音を聞いて一日中ビーチでゆっくりしたかったわたしたちは、岩場と砂浜が入り混じったワイルドめなほうのビーチに行った。

予想していた通り、こちら側の海は人も少なく、なんのサービスもないけれど、砂浜に沿って群生している木々がちょうどよく木陰をつくり、水遊びに疲れた私たちがお昼寝するのに丁度良いパラソルの代わりとなってくれた。

翌朝同じビーチに行くとまたお気に入りのスポットが空いていた。ラッキー!一日をまたここで過ごそうとワクワクとシートを敷いた。

だんだん日差しが強くなり、お昼にしようと、その日は娘を抱っこして、大通りまで行き簡単にご飯を済ませ、よし、戻ってまたお昼寝をしよう!と意気揚々とお気に入りのビーチに歩いて帰る。すると、私たちのシートが見当たらない。遠くからでもはっきりわかるほどの派手な大きな布が見当たらない。その代わりに二十人くらいの若者グループがガンガンに音楽を鳴らし、大きなテントを張っている。とりあえずそこまで行ってみてみると、その派手な柄の私のシートは、彼らのテントの後ろで、砂まみれになって隠れていた。

ものすごく、ものすごく、とてもとてもムカついた。

もともと喧嘩っ早い私の性格を知っている夫は、先回りして、やんわりと彼らに私たちのシートの上に侵入しているダンボールをどけるように伝え、私にあっちの方にも木陰があるから移動しようと、したくを始めている。娘は大音量の音楽に体を乗せてダンスまでしちゃっている。私はものすごく腹を立てていた。クリーニングなんて、もう全く忘れて、ただただその失礼さ、無神経さ、理不尽さを頭の中であげつらい、どれだけこれが悪いことか、まるでいつでも誰かに説明できるように、とにかく怒っていた。さっさと他の場所に移動してしまった夫と娘を追う前に、相手に伝わるように彼らを睨んで行くことも忘れなかった。

次の場所は、岩が影を作ってくれていた。娘が夢中になっていた蟹がたくさんいる岩にも近くて、とても居心地が良い場所のはずだけれど、まだまだ私の中のマグマは沸騰中だ。理不尽で、悔しくて、次から次へと怒りストーリーが展開して行く。夫と娘は切り替えて、というかもともと何事もなかったかのように楽しみ初めている。そんな彼らの様子にさえ腹が立った。なんで平気なの?あそこは私たちのお気に入りの場所じゃなかったの?誰とも共有することができない消化不良な苛立ちで海も風も何ももう感じない。なんだか意味もわからず、ふてくされて、孤独で、なんだかもう苦しい。帰りたい。どこか私を怒らせない、静かなところに帰りたい。

そう思ったところで、ふと内側でクリーニングが始まった。どうすることもできないからそうしたのか、何か自分で気づいたから始めたのか、とにかく、この怒りを自分でクリーニングしようとクリーニングを始めた。

みんなの海なのに。

ちゃんと早くきて、陣地を取ったのに。

娘と夫とのんびりとしたかっただけなのに。

クリーニングしても、次から次に、私の中にいろんな説明、言い訳、声が次から次に出てくる。でもそれをクリーニングして行く。せっかくみんなで海に来ているのに、自分だけが楽しめないことへの恥ずかしさみたいなものも出てくる。それもクリーニングして行く。こうしている間に、もう旅行の残り時間はどんどん過ぎて行くことに焦る自分を感じる。それをクリーニングする。

「見せてくれてありがとう」

「愛しているよ、愛しているよ」

痛い心にアイスブルーと心の中でいい続けていた。

こんなちっぽけな自分を誰にも見られたくなくて、横になって寝たふりをしながら、とにかく、溢れる想いをクリーニングし続ける。こんなことでキレて、ただ楽しそうに遊んでいる若者を睨んだりして、恥ずかしい、という気持ちをクリーニング、その一方で、マナーが悪い人がいる世の中を呪うような重たい気持ちをクリーニング。

続けているうちに、ふと涙がこぼれた。寂しかった。なんだか、世の中とうまくバランスを取れない寂しい記憶、調和を持てない自分を愛せず、恥ずかしむ記憶、今日を楽しみにいろんなことを我慢して来たこと、それを台無しにされたこと、いや台無しにしているのが自分だという深い後悔。

怒りという重いふたが少し軽くなったら、その下から見えて来たのは、怒りではなく、寂しさと恐れだった。うまく人とやりあえない、みんなが盛り上がっているのに一人だけ冷めちゃって楽しいことをたくさん逃してきおたことへの後悔みたいなもの、なんでもすぐに怒ってしまう小さな自分がもう恥ずかしいからと、忘れようとした数々の気持ちが緩やかに流れてくるのをただただ見てクリーニングしていく。

だんだんと波の音が聞こえて来た。日差しがサンセットに向かいだんだんと優しく、空の色も青が濃くなって来ているのが目に入る。涙を拭いて、夫たちを探すと、水しぶきをあげながら蟹を追いかけ回している。

沸騰していた頭よりも、中心がお腹あたりに戻ってきて、不思議ともう心が荒れていないことに安心する。家に戻って来た。そう実感する。怒りという嵐に飛ばされない、安心の家がなんとか保たれた。

怒りに圧倒され、長いこと水分を取っていなかったことに気づく。お水を飲んで、ふと目を若者たちがいたテントの方に移すと、みんなでジェスチャーゲームを始めていた。冷たそうに見えた若者たちはもしかしたら初対面同士の人もいたのかもしれない。ジェスチャーゲームに夢中になってみんな心からの笑顔でとても楽しそう。気のせいか、爆音でかかっていたと思っていた音楽は波の音に消えてしまうくらいのちょうど良い音量だった。

自由な自分をかんじる、それが喜び以外の何ものでもないことに気づく。

私が欲しかったのは、自然以外のなにもない無音のビーチでも、お気に入りのスポットが私の陣地として確保され続けることでもなく、まるで目の前の波のように無限にリズムや形を次から次に変化させ、調和をもって、生きている自分。

自分が思い描いた今日一日を思いっきり超えて、そこに緩やかに、そしてワクワクといる自分。そんな自分を一瞬思い浮かべ、とても幸せな気持ちになった。

想像を超える平和、はいつだって私の頭では全然追いつかないところで起こる、そのことを強く思う。

さあ、今を楽しもう。頭が追いつかないように、クリーニングしながら、今目の前にあることを楽しもう。娘と夫はいつの間にか、海の中で泳ぎ始めていた。わたしも恐る恐る日焼けした肌を水につけてみる。ひんやりとした水が心地よく、どんどん泳ぐ、ブイのある辺りまで泳いで初めてビーチを見返すと、それぞれの人が、犬が、シートもテントも、ビーチボールも、全てが夕陽に照らされて、優しく輝いて見える。もう一度クリーニングする。このビーチのどこにも、誰にも、私の記憶を残して行ききたくなかった。私が自由であるために。

またビーチの方に戻って、娘と砂遊びを楽しむ。もう心が溺れてはいない。二人で波が来て消されてしまう前に砂の上に夢中でいろんなものを描く。

「ごめんなさい」

ふと、後ろから声をかけられる。

振り返って見るとそこには数人の若者がテントの方からやって来ていた。

「全然帰ってこないからいいかなと思って、あんな風に邪魔しちゃってごめんなさい」

タトゥーだらけのその男女たちはとても優しい目をしていた。申し訳なさそうにしゃがんでいる彼らに、心から「ありがとう」と言うことができた。「とても楽しみにしていた旅行だったから期待が大きすぎて、すごい怒っちゃって」とわたしが言うと、「娘さん、とても可愛いですね」と言って彼らは娘と遊び始めた。

ちょうどその頃、夫がビールをどこかから入手して戻ってきた。

もうマックスに真っ赤に照らされたビーチには、大好きなビールと家族とさっきまで敵だった者同士がそれぞれのことを自然にしながら、大きな海にありがとうといっているような優しい気持ちで、ただただ、自由に調和しているような気がした。

 

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ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

先日、コメントで、「毎瞬、毎瞬クリーニングするにはどうしたらいいですか?」というメッセージがありました。

私はこの通り、日々のほとんどをクリーニングを忘れ、怒り、嘆き、笑ったり、落ち込んだり、ドラマクイーンを生きています。でも、毎回とはいかなくても、時にこうして、ふとクリーニングを思い出し、実践して行くと、頭で捉えている現実がシフトして、本当に内なる自分が手放したかった傷だったり、何か自分の人生でブロックとなっている記憶をクリーニングするチャンスを与えられます。

本当に苦しい時、クリーニングすると、人生の宝物と出会う瞬間があります。

怒っているとき、それが最もだという確信が強ければ強いほど、そこをクリーニングしていくと、自分の持っている、もう固いを通り超して、わたしの骨なんじゃないかというようなものがゆっくりと剥がされ、何か元の自分に戻れる、そんな不思議な感覚がときにあらわれます。実際の問題がどう変化するか、それが好転するしないに関わらず、わたしにはその自分の内側に起きる感覚のようなものが大きな鍵であるとしか思えません。

同時に、それを期待せず、ただただ、また思い出したその瞬間に、純粋な気持ちでクリーニングできるようでありたいです。私の場合、ヨガでもホ・オポノポノでもそうですが、これがいい!と思ったとき、よし毎日続けるぞ、と意気込んでいる時、その瞬間はヨガもクリーニングもしていないことがほとんどです。そういうとき、

何か自分でないものを見て、今この瞬間ではなく、ほかの何かを期待している、記憶を生きている瞬間、にすり替わっていると感じます。だから、思い出したらクリーニング。ただそれだけを、ウニヒピリは見ているのだと思います。

一歳半の娘に「後でね」が通用しないように、あとでではなく思い出したときに「今この瞬間はクリーニング」をしたいと、こころがけています。

 

ありがとうございます。

POI
アイリーン