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スポンジ

去年の終わりに、赤ちゃんが生まれ、新しい命ってほんとうに、とにかくフレッシュな存在で、とても大きくて、それと近くで関わっているあらゆる人が、これまでの淀みを清算しないとどうしようもない、そんな流れがみなに起きた。わたしは夫との関係だったし、夫は実の両親とのこと、弟はしごと、みたいに、何かしら、大きく動いた年末年始。

そして、わたしの母にとって、それは大掃除、大断捨離として現れた。わたしの母も伯母も、生い立ちから抱えてきたいろんなことから、なかなかものを捨てられない、祖母が残してきた、形の残るもの、残らないものをいろんな形で抱え込むというのを、わたしも幼い頃から見てきたけれど、母はそれを今までいろんなセミナーだったり、そしてホ・オポノポノと出会ってほんとうに素晴らしく変化させていった。

でも、ものを溜め込む、手放すリズムみたいなものは、なかなかまだまだうまくいかないようで、母の家に行くたびに、いろんなことを言いたいけれど、それをクリーニングしたり、口にしてしまっては、大げんかになり、またクリーニング、、、みたいなことを繰り返してきた。

そんな中、母はとうとう一大決心をして、部屋を生まれ変わらせる、いろんなものとお別れをする、ことを決意して、じわりじわりを動き始めたのだが、その姿、プロセスは、痛々しくもあり、たくましくもあり、弟と手伝いつつ、見守りつつ、なんだか母のウニヒピリの様子を目に見て、感じる、そんな体験でした。その中でフリマに参加したり、今までいなかった娘の存在がみなにとってなんだかたくましく、今こうしてあのときのことをまとめようとしても、まだまだまとまらない、そんな感じです。

おかげさまで、母は新しい新居でのびのび新生活を始め、大きく起こした行動の疲れや思いの整理を静かにしています!

そんな大掃除のときの話、毎日、途方もない作業が行われ、一体全体どうやったらこれだけものが溜まるんだ、この家のどこかにブラックホールとつながる場所があるに違いないと思わずにはいられないほど、ものが、とにかく、ものが、、次々に出てきては、悲しい気持ちに、出てきては、苛立ち、出てきては、怒り!と、わたしもクリーニングをしたり、忘れたりしつつ手伝い、母、わたし、弟は作業を進めていった。

ある日、「使えるものはどうかこの中から使って」と、母から大きな紙袋を渡されて、家に持ち帰って、それを開いてみると、たくさんの食器洗いスポンジや洗剤、未開封の雑巾的なクロスや、そのほかさまざまは掃除便利グッズが入っていた。それらにはすべて、半額シールなどがついていて、きっとこの10倍の数がそれぞれ見つかったのだろうな、これはその一部に過ぎないのだろうな、と思うと、途端に怒りがこみ上げてきた。いっそ、この袋ごと捨ててしまえ!捨ててやる!とその言葉通り、とても暴力的な気持ちにまでなった。

わたしは身内にとても短気で、ふと、こんなスイッチが入ることがある。その時もスイッチは入り、それまで結構大きな気持ちで母を手伝ってきたのに、掃除の疲れも手伝って、その紙袋が原因で、感情は揺れに揺れた。紙袋をそのまま、ゴミ捨てばに持って行こうかと、手提げの部分を乱暴に手に取ろうとしたとき、一番上にちょこんと乗っていた未開封のスポンジのプラスチックの袋が電気に反射してキラリと光ったのが目に入った。

そこで、なぜか一瞬クリーニングした。ただ、「ごめんなさい、愛しています」。

そして、そのスポンジを手にとって、パッケージを読んで、破って、中のスポンジを出してみたら、不思議とこんな声が聞こえたのだ。

「お母さんは綺麗にするために買ったんだよ」

とてもかすかだけれど、優しい声だった。

そして映像まで、なんとなく見えた。それは母が会社の近くにあるドラッグストアのその売り場で、いくつもあるスポンジの中から、このスポンジを手にとって、老眼の目をこらしながら、説明やこのスポンジの凄さを一生懸命読んで、このスポンジが有能で素晴らしいものとして、自信を持って、嬉しくて、爽やかな気持ちで、レジに運んでいく母の姿をわたしははっきりと感じた。

わたしの手に入った、その小さなスポンジをもう一度みると、そこにはもう怒りなんてなく、表のまるで泡のように細かいグリーンのスポンジと裏の粗めのブルーのスポンジが、まるで綺麗な宝石のように輝いていた。

ああ、よかった。クリーニングできてよかった。こころからそう思った。何かとても大事なものを失うところだった。失いかけていたのはスポンジ、ただそれだけではない。それは、わたしの中にある、ウニヒピリの声であり、わたしがわたしである貴重な何か。それが具体的にどこでどう役に立ち、何に必要なのかはわからないけれど、わたしが生きていく中で、とても大切な、自分にとっての宝ものに近い、コンパスのようなそんなものな気がした。

心はもう落ち着いていて、今度は紙袋から、入っていたものを一つ一つ改めて出してみてみた。ミクロの力で洗剤なしで汚れを落とすクロス、洗剤が約半分でよくなる洗濯機用ボール、強風でも絶対に落ちない特殊な形をした洗濯バサミ、それぞれが今度はしっかりと凛々しい様子で目に入り、丁寧に、わたしはそれらの居場所を今度はわたしの家に見つけることに夢中になった。

母がそれらを買い込み、使い切れず、処分することになったことはもちろんよろしい話ではないし、美化するつもりもないけれど、わたしがそのものたちの存在をしっかりと認めることは、紛れもなく、わたしを取り戻すことに等しいパワフルなアクションだ。

そして、うまくはいかなかったけれど、母がそれをその時、とても大切に選んだこと、それらのものたちへの使い道を丁寧に考えたことを受け取れたことも、わたしを豊かなじぶんへと戻してくれた。

なんで、何かに対して、意地悪な気持ちがいやなんだろう、なんで何かに怒ると苦しいのか、それは、その対象とわたしに無限にあるはずの素敵な可能性とか、本来の目的を一瞬にして破壊して、踏みにじってしまうからなのかもしれない。それはきっとわたしそのもの、そのたましいの部分が大きく損なわれるようなことなんだと思う。

小さなことでも、それを捨てるにしても、とっておくにしても、わたしがその時、どんな気持ちで扱うか、それはきっちり刻まれてしまうのだなあ、なんだかそんな気がした。

赤ちゃんと一緒に暮らしていると、さらにそれらを強く感じる。台北で暮らしているアパートではその四方八方でビルの建設ラッシュで、よく言う騒音被害の真っ只中。生まれる前は、自然に囲まれた静かな環境で育てられない〜と嘆いていた。でも、赤ちゃんって音の大きさではなく、その音が持つバイブレーションでしか反応しないと思う。鉄筋コンクリートの重なる音よりも、わたしの苛立ってしめたドアに反応する。大きな音を立てず、できるだけ小さくしめても、イライラしていたら、それに反応する。風でバタンと大きくしまってしまったドアにはびっくりしつつもニコリとしているのに、わたしがイライラしている時に関わるあらゆるものとの接触から、何かを感じ取っているのが、一緒に暮らしているとよくわかる。そして、それは赤ちゃんじゃなくても、ほんとうは日々、私たちすべてが感知していることなんだ。それぞれの思いがモノに、道に、土地に残っている。

だから、わたしにはクリーニングがある。今日も出会う無数のものやひと、もう二度と出会わなくても、今日それを捨てるとしても、誰かに譲るとしても、記憶のアカコードをできるだけクリーニングすることが、今わたしを生きること、今出会い、別れ、それぞれが自分を生きることだ。

イライラが重なって、大きな問題が起きて、何から手をつけたらいいのかわからない、途方もない、気分が重い、そんな時こそ、今日一日、関わるもの、触れるもの、歩く道に残しているわたしの思いをできるだけクリーニングするようにしている。疲れ果てつつ改札にタッチするときのPASMO、やだな〜と思いながら食器を洗っているとき、前方で道を占領しながら歩く人たちにイライラしながら歩くその道、とつぜんフリーズしてしまったパソコンに焦るとき、エレベーターがなくて仕方なく階段を歩いているとき。そう思うことがダメなんじゃない。でも、それをそこでクリーニングしていく、そのモノ、場所、道に残しているわたしの想いや体験をクリーニングしているといつの間にか、なんだか少し清々しい、それこそが自分を取り戻す大きな旅の始まり。一日できるだけ、そのことに意識を置いて過ごしてみると、不思議と何かが収まり、流れが変わっていることに気づくはず。

スポンジ、ひとつとの関わりの中に、わたしを生きるための秘密が隠されている。

グリーンとブルーのスポンジが今、キッチンの流し台のところで、堂々と佇んでいる姿を見るたびに、自分の尊さを思い出している。

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写真は、台北花市で出逢ったハイビスカスです。台北は今の季節、植物大爆発です。

久しぶりにブログ書きました!たくさんのコメントありがとうございます。嬉しいです。

代官山での講演会、来てくださった方、ほんとうにありがとうございます。以前講座などに来てくださった方々の姿も見れて、幸せでした。

またブログ書きます!

読んでくれて、ありがとうございます。

 

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アイリーン